投資信託お役立ち教室

口座開設から換金まで

ただ、そうだったとしても、西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っていた。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは、西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立[12]を象徴することでもあったとされている。 カールのサイン デューラー「カール大帝」(1511-1513)カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かかったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。 また、文字の読み書きはできなかったという。カールはしばしば"KAROLUS"の7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の菱形だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。 服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製のゲートルをつけ、靴をはくというスタイルを好んだ。儀式のとき以外はローマ風の正装は好まなかったといわれる。 カールのことばに 「平和なくして、神を喜ばせることはできない」 「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」 がある。 家庭生活では、5回結婚し、そのうえ4人の外国為替証拠金取引 がいた。生まれた子は約20人。カールの男子で死後まで生きたのはルートヴィヒだけだったが、女子の方はおおかた無事に成長した。カールは容易に娘たちの結婚を承諾しなかったため、娘たちは勝手に結婚したりしてスキャンダルを引き起こしたりしている。 カールと息子ルートヴィヒは動物飼育に熱中したという記録がのこっている。797年にはアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからゾウ1頭と何匹かのサルを贈与され、9世紀初頭にはアフリカのイスラム政権アグラブ朝から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産のシカ、ノロジカ、ダマジカなどの哺乳動物や、クジャク、キジ、キジバト、ヤマウズラ、カモなどの鳥類が集められていた。 カールはまた、フランスのトランプでは、ハートのキングのモデルとされている。 アーヘンの宮廷礼拝堂カールは、フランク族の伝統にしたがって、3人の子を後継の共同統治者に任命したが、そのうち2人はカールの死に先だって死亡してしまった。そのため、813年、ただ1人のこった息子ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔王)を次の皇帝に任命し、翌814年に死去した。 カールの遺体はアーヘン大聖堂に埋葬され、遺骨はいまも特別の神殿に保存されている。 ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862年−1935年)は、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱えている。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、ムハンマド(マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。 ^ 中国の柔然との同族説もあるが、外国為替 はない。 ^ カールの死後は世襲化が進み、かえって地方の分権化をうながした。 ^ アーヘンのほかインゲルハイムやネイヘーメンなどにも宮廷がきずかれた。いずれの宮廷付属庭園でも動物が飼われていた。 ^ EU統合の初期段階においてデンマークでは国民投票(1992年)がなされたが、このなかでマーストリヒト条約の批准は否決されている。イギリスやスウェーデンでも、ユーロを通貨とすることについては今でも拒否感が強い。経済的な理由が最大の要因であることは言うまでもないが、これらの国々は歴史的にみても「カールの帝国」には含まれていなかったのである。 ^ しかし、これは単純な古典回帰ではなかった。ラテン語の教育にしても、地方ごとに異なる言語が用いられ、遠距離間の情報伝達に不自由する時代であったため、ローマ以来の共通語であったラテン語を理解する聖職者の存在が不可欠とみなされていたためでもあった。 ^ 宮殿周辺付近にブドウを植えたという伝承があり、ワインに「コルトン・シャルルマーニュ」(白ワインのみ)という銘柄がある。 ^ 印象的なこのローマ入城は、あたかもローマ時代の儀礼「皇帝到来」の再現のようであったという。 ^ 通常、これをもって「カールの西ローマ帝国皇帝即位」(在位:800年−814年)としている。強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、カールを西ローマ皇帝とすることで、はじめて東ローマ皇帝や、その支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。 ^ 古代ローマ皇帝の理念は「キリスト教皇帝」に変質していたので、敬虔なローマ・カトリック教徒の最高の王者であれば、ゲルマン人であっても、カールが皇帝になることは差し支えなかったことをあらわしている。 ^ 東ローマ帝国との関係が悪化したとき、カールは、ハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期のカリフ)とも提携して対抗しようとしている。なお、「シャルルマーニュの護符」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものと言われる。 ^ これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。 ^ それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。