労働経済学者によってしばしば用いられるものがある。それは、完全雇用状態における失業率を「理想的失業率」(ideal unemployment rate)と考え、そこでは労働市場における非効率性(例えば構造的失業)は存在せず、ただ労働者が一つの職から次の職を探す間の摩擦的失業だけがある状態だ、とするものである。例えばウィリアム・ベヴァリッジは完全雇用を「求職者が求人数に等しい状態」と定義していた。彼は経済が最大の生産を達成するためには、完全雇用以上の雇用が維持されることが望ましい、と考えていた。 1990年代末のアメリカでは、多くの学者がNAIRUと考えていたレベル以下の失業率であったにもかかわらずインフレ率は安定していた。 日本においては高度経済成長〜バブル景気前後が、ほぼ完全雇用だったとされている。 近年の欧州諸国は、物価上昇率が著しく低いなかで、高い失業に甘んじている。失業はこれらの国で重大な社会問題であり、物価上昇が加速していないから完全雇用、と言える状況ではない。 1980年代以降、先進国では、それまでインフレーションをもたらしていた貯蓄投資バランスの不均衡が、経常収支へ強く影響を及ぼすようになった。このため、物価上昇と失業の関連は崩れ、インフレーションからのアプローチは意味を喪失している。 先進国(せんしんこく)とは、高度な工業化を達成し、技術水準ならびに生活水準の高い、経済発展が大きく進んだ国家のことを指す。後進国(現在では開発途上国又は発展途上国、途上国の方が一般的)に対して、先進国と呼ぶほか、先進工業国、富国、中進国、高所得国などとも呼ばれることがある。 先進国とは技術で先を行き、比較的豊かな国々をさす。大国(超大国を含む)と同義の使われ方をすることもあるが、先進国は国の規模より経済力に重点を置いた場合であることが多い。対義語は発展途上国。(後進国という呼び方は侮蔑的とされ使われなくなった。) 主要先進国として日本やアメリカ合衆国、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどの、ロシアを除いたG8加盟国が挙げられる。北米、西欧、北欧の国々に多く、全体的にみると北半球の国に多い。そのため、主に南半球に多く分布する開発途上国との摩擦は南北問題と表現される。 先進国の定義は曖昧で、国際機関によっても異なるが、国際社会では「先進国クラブ」とも呼ばれている経済協力開発機構 (OECD) 加盟国を先進国として扱う傾向にある。日本は1964年に加盟した。日本は1955年にGATT加盟をしており、GATT加盟からOECD加盟までの期間が9ヶ年というのは極めて短く、日本の高度経済成長がいかに稀なものであるかが伺える。1993年に人間開発指数というものが登場し、国の発展度を計る際に用いられる。 アメリカ中央情報局 (CIA) の The World Fact Book では、先進国 (Developed Countries) として[1]、また、国際通貨基金 (IMF) は、「経済先進国」(advanced economies) として、以下の国と地域を挙げている。[2] バブル景気(バブルけいき)とは日本の経済史上で1980年代後半〜1990年代初頭にかけてみられた好景気である。指標の取りかたにもよるが、概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51ヶ月)間を指すのが通説となっている。この場合、いざなぎ景気(1965年11月〜1970年7月の4年9か月(57ヶ月)間が通説)に次ぐ戦後3番目に長い好況期間となる。 過剰な投機熱による資産価格の高騰(バブル経済)によって支えられ、その崩壊(バブル崩壊)とともに急激に後退。同時に1973年より始まった安定成長期も終焉を迎え、その後の平成不況(複合不況、失われた10年)の引き金となった。 平成景気とも呼ばれるが、「平成景気」は広義ではその後の平成不況をも含む。 バブル景気という言葉は1987年に命名されたとされ、元になった「バブル経済」という言葉自体は、1990年の流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」(誰が最初に使い、流行らせたのか分からない為)で受賞している。しかしこの言葉が広く一般に、実感を伴って認知されたのは、投機経済が崩壊したあとである。例えば、1990年末に出版された朝日現代用語・知恵蔵1991にはバブルという言葉は使用されていない。 経済学者の野口悠紀雄は、1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」と言う論文を、『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、“私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」と言う言葉で規定したのは、これが最初だ”と述べている。[1]。 バブル景気の引き金になったのは1985年のプラザ合意とされている。当時、ドル高によるレーシック に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。これにより、 円高による打撃を受けることの予想された輸出業界を救済するため金融緩和が実施され、過剰な流動性が発生し、その資金が不動産投資や株式投資に向かい信用創造が膨らんだこと。 中曽根内閣は貿易摩擦解消の為、国内需要の拡大を国際公約し,これまでの緊縮財政から一点、公共事業の拡大政策をとったこと。 金融緩和(低金利)政策(当時国際公約と捉えられていた)が継続されるとの期待が強固であったこと[2]。 それまでの素地として以下の要因があるとされている。 1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。 金利低下により利鞘が縮小し、銀行は融資の量的拡大で収益を確保する必要性に迫られたこと。 企業の資金調達手法がスキャナ し、間接金融から直接金融へ向かったこと。 企業の資金調達が容易になったことで財務体質が改善され、設備投資が容易に行えるようになったこと。 金融市場の国際化の流れから国内市場の門戸を開放せざるを得ず、海外金融機関の新規参入が相次ぎ、金融取引が活発化したこと。 NTT、JR、JT等の公企業の民営化がなされ社会全体の企業活力が増したこと。 円高の進行で輸入に頼る一次産品(エネルギー価格等)のコストが低下したこと。 1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていた。 企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇しする乗数効果を生んだこと。 これらの要因が重なって予備校 では投機熱が加速、特に株と土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加し地価は高騰。東京23区の地価でアメリカ全土が購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもをゆるめる資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年から日本企業による欧米企業のM&A(企業買収)がかなり進められた。 1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延(まんえん)した。特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌をにぎわしていた。 一方、一部の識者からは、すでにクーリング オフ や株価は合理的に説明(収益還元法)できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していると危惧する声もあった。そもそも日本の人口増加率が低下し、2007〜2008年には人口が減少に転じると予想されることから、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが、「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする政府の見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。 もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。いざとなれば含み益を用いて解消できるとハイリスクな事業を展開したり、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。この動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。 大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引された。こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われた。土地の有効活用による収益(インカム・ゲイン)ではなく、店舗デザイン が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益(キャピタル・ゲイン 簡単に言うと購入額と売却額の差益)を目的とすることが多かった。 土地を担保として融資を行うに際しては、家庭教師 評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなかった。破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。単一の物件に複数の担保をつけることも行われた。背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もあった。この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となった。 道路用地の取得価格も高騰し、第二東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなった。高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じた。